「徳川家康」という名前を聞いて、どんなイメージが浮かび上がりますか?
おデブでふんぞりかえっているイメージ?長生きした人というイメージ?江戸幕府を開いた人?
多くの人は、上にあげたようなことを思い浮かべるでしょう。
ところで、家康のエピソードって何かご存知ですか?家康にまつわるいい話は?
どちらもあまり知られていませんね。
そこで今回は、学校の授業では触れられない、家康公のプライベートな話をご紹介します。
目次
徳川家康はいい人だった?!逸話から知る家康公の人となりといい話
徳川家康の逸話からどんな人物だったかひも解いていきましょう!
徳川家康は、元々岡崎城城主、松平宗家の九代目として誕生しました。
しかし、時は戦国の世。
家康が平和な幼少期を過ごせたわけがありません。
実際、家康は三歳で母と生き別れ、織田の人質になったり、今川の人質になったりと波乱万丈な幼少期を過ごしています。
小さいころの経験がその人物を作るとはよく言ったもので、これだけの不幸な経験をしていれば性格も悪くなりそうですよね。
しかし、家康の性格は悪くはなりませんでした。むしろ、この人質の経験から並外れた忍耐力を培うことになるのです。
家康は、人質として今川家にいる間、織田家にいる間、沢山の人間模様を観察していました。
そして学んだことは、「家臣を大切にすること」、「民を虐げないこと」だったのです。
そこから家康は、「他人に感謝し、尊敬をもって接する」ことを人生のモットーにしたというわけです。
人を何よりも大切にしていた家康にはこんな話が残されています。
豊臣秀吉が天下を治めていた時のお話。秀吉が家臣たちに自分の宝自慢をさせました。家康が自慢した宝は、金銀財宝ではありませんでした。
「自分に尽くしてくれる500もの臣下たちを何よりも大切に思っている。何よりも尊い宝だと思っている」と話したそうです。
義理人情に厚い、家康の人となりがよく分かるエピソードですね。
徳川家康ってどんな人?家康公の性格と鷹狩り好きのエピソード
徳川家康の性格を知る上でもう一つよく知られた話に鷹狩りのエピソードがあります。
元々鷹狩りは、仁徳天皇によって導入された、貴族や権力者のお遊びごとでした。
しかし、時代と共に鷹狩りの在り方も変わり、軍事訓練に鷹狩りが用いられるようになります。
家康が天下を取った後の江戸時代は、それまでの乱世とは異なり、平和な時代でした。
戦いがないからと兵士たちの訓練を怠るのも良くないということで、時々鷹狩りが兵士訓練に使われていたそうです。
ですので家康の鷹狩りは、本人の趣味というだけでなく兵士の訓練という目的もありました。
それでも、家康は純粋に鷹狩りが好きで、鷹狩りを心の底から愛していたとも言われています。
家康の鷹好きは、人質時代にまで話が遡ります。
恋しい母にも会えず、仲間もいない人質生活で、唯一鷹との時間を心の拠り所にしていたのです。なんともイメージとは違い可愛らしい性格も持ち合わせていたのですね。
そして、この頃から鷹狩りに熱中していたと言われています。
しかし、人質の身分で鷹狩りが出来るというのは、なかなか待遇も良かったように感じられますね。
鷹狩りそのものをしていたというよりは、鷹狩りにかり出される鷹のお世話係という位置付けだったのかもしれませんね。
いずれにしても、毎日鷹と戯れていたことは間違いありません。
死ぬ直前まで鷹狩りを楽しんでいたと言い伝えられるほど、鷹狩りをこよなく
愛していた家康。
おデブな肖像画からはちょっと想像しにくい素敵なエピソードですよね。
まとめ
いかがでしたでしょうか?
人財に恵まれ、200年以上も続いた江戸幕府を立てた家康。
彼は、忠義を尽くしてくれた臣下への手厚い待遇を常日頃心掛け、優しさを持って接していたのだそうです。
忍耐強さでも知られていたところから考えると、織田信長のような短気を起こすこともなかったのでしょう。
まさにリーダーの鏡とも言える人物だったということが良くわかりますね。
他にも家康公にまつわるいい話は沢山あるので、気になる方は是非そちらもチェックしてみて下さいね。
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