江戸幕府を治めてきた将軍は15人います。
その中でも目立った功績を残した人についてのみ学校では勉強しますね。一代目家康、三代目家光、五代目綱吉、八代目吉宗、そして十五代慶喜。この5人に関しては小学校の頃からお付き合いがあるのではないでしょうか。
しかし、残りの10人の将軍に関してはどうでしょう?
中には名前すら記憶にないという将軍もいるかもしれません。
そこで今回は、15人の将軍の中でも最も幼くして将軍の位に付き、あっという間に早世してしまった第7代将軍、徳川家継についてまとめてみました。
目次
徳川家継は病弱だったって本当?死因は何?
徳川家継は病弱だったと言われますが、死因はなんだったのでしょうか?
まずは、その話の前に徳川家継が日本を統治していた時代に言及したいと思います。
徳川家継は、江戸幕府第7代将軍です。
「そんな将軍いたかな?」と思うのも無理ありません。約4年間しか在任しておらず、その間に政治を動かしていたのは新井白石でした。
新井白石といえば、生類憐みの令を廃し、第5代将軍徳川綱吉によって乱された世を
再び正常に戻した人です。
歴史の教科書上は、第5代将軍徳川綱吉の政治のあとは新井白石による政治(正徳の治)が展開されたという流れの説明がありますね。政治の実権を握っていたのが新井白石であったとしても将軍という存在も確かに存在していたのは事実です。
新井白石は第5代将軍の後に登場しているので、第7代将軍徳川家継の父である第6代将軍徳川家宣の時代から頭角を現してきていたということになります。
徳川家継の父、家宣という人物は48歳で将軍になりました。若くもなく、病弱であったことから世を治めることは難しく、頭の良い新井白石らを用いて政治をしていたと言われています。
しかし、家宣は将軍に就任して3年経つか経たないかという時にこの世を去ります。
急きょ将軍には家宣の息子である家継があてがわれたのです。これが最年少将軍の誕生でした。この時家継は若干4歳、七五三だってまだ終えていない年齢です。
政治のことなんててんで分かっていなかったので、政治のことは引き続き新井白石らに丸投げだったというわけです。
4歳にして将軍になった家継でしたが、その4年後には父を追うがごとく、この世を去ります。
在任期間は4年と、父家宣より1年長く将軍を務めたのです。家継は家宣の四男で、上には姉や兄たちがいたのですが、皆身体が弱く、2歳頃に夭折していました。
家継は兄たちよりは長生きでしたが、やはり体が弱く、病弱体質でした。父家宣本人も病弱体質だったということなので、遺伝してしまったのでしょう。
最期は風邪をこじらせ、肺炎を患い、息を引き取ったのでした。
享年8歳。
人生の半分を将軍として過ごした人物だったのです。
若くして亡くなった徳川家継には婚約者がいたらしい
4歳で将軍になり、8歳でこの世を去った徳川家継には、フィアンセがいました。
婚約者はなんと天皇の娘!家継生後1ヵ月の時に婚約を結んだようです。徳川家継に、生まれてすぐ婚約者が決められたのには理由がありました。
父、徳川家宣は病弱体質だったこともあり子供が誰一人として長生きしませんでした。
それゆえ、次期将軍には必ず跡取りをもうけさせねばならないということで、早々相手が決められてしまったのです。
婚約者に格上の皇女が選ばれた理由には、家継の出世の経緯が関係しています。家継は、確かに将軍徳川家宣の子ですが、家宣の正室の子ではありません。側室の子でした。
その側室は、お喜世(月光院)と言い、正室の熙子(皇女の出)よりもずっと低い
身分の者でした。
母親の身分が低いということで家継の権力や地位が脅かされてはならないという考えから、家継の相手には皇女(霊元天皇の娘、八十宮吉子内親王)が選ばれたのです。
しかし、家継が8歳で早世してしまったことから結婚に至ることはありませんでした。
たった8年間しか生きていない人生の中に皇女との婚約、将軍就任というビッグイベントが詰め込まれていたわけですが、本人はどんな思いでその8年間を走り抜けていったの
でしょうか。
子供心には荷が重すぎることもあったでしょう。徳川家継もまた数奇な運命をたどった一人だと言えそうです。
まとめ
いかがでしたでしょうか?
徳川家継は、父徳川家宣の病弱体質をバッチリ受け継ぎ、最期は風邪をこじらせてこの世を去りました。
一説には、側室の子が将軍になることを許せなかった正室の熙子が毒を盛ったとも言われていますが、家継の兄弟皆病弱だったことを鑑みるに、父家宣の病弱体質を受け継ぎ、家継自身も病弱であったと考えるのが妥当でしょう。
4歳にして将軍となり、政治とはなんぞやということも分からないうちにこの世を去ってしまったのです。
恐らく生後1ヵ月で婚約者となった相手にも会わないうちにこの世を去ってしまったのではないかと思います。
もし長生きしていたならば、どんな将軍になっていたのでしょう。
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