江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜。
徳川慶喜が生きたのは1837年から1913年ということで、この頃になると肖像画も写真で残すようになりました。
実際、「徳川慶喜」でインターネット検索すると沢山の徳川慶喜の写真が登場します。
若い頃から晩年のものまで揃っています。なかなかの男前な顔立ちをしていますよね。鼻筋もすっと通って、りりしいお顔立ちです。
江戸幕府を開いた第一代将軍家康とは、「本当に血がつながっているの?」と考えずにはいられませんね^^
さて、これほどまでにイイ男だった慶喜は、さぞモテモテだったことでしょう。
「側室も多かったの?」「側室は、やはり美人ぞろい?」
などなど気になりますよね。
今回は徳川慶喜の側室についてまとめてみました。
目次
徳川慶喜の趣味は写真撮影!側室の写真を撮ったのは慶喜本人?
徳川慶喜が写された写真は沢山ありますね。
これだけ沢山写真があると、「写されるのが好きだったのかな?」なんて思ってしまいますよね。
写されるのが好きというよりも、慶喜自身、写真機や写真そのものに興味があったのです。
西洋から入ってくるものに対して拒否反応を示すのではなく、興味本位でどんどん手を出していたと言われています。
中でも気に入ったのが、写真でした。写真機を使った写真撮影にすっかり夢中!
まずは、美しい愛人の写真をパシャリ。側室の写真が撮り終わったら、今度は女中の写真をパシャリ!
色々な人物の写真をパシャパシャ撮っていたようです。女中の写真まで撮るぐらいですから、相当な写真好きなのは間違いありません。
ちなみに正室の一条美賀子さんの写真はこちらで掲載されているので興味があり方は
確認してみてください。
徳川慶喜の側室は美人ぞろい?!写真は今も残されている?
徳川慶喜には正室の美賀子以外に、側室が多い時で5人ほどいました。
正室の美賀子は、当代切っての美人と言われたほどの美人さんでしたが、身体が弱く、早くに亡くなっています。
正室を早くに亡くした慶喜を支えていた側室は、新村信と中村幸という2人の側室でした。
この2人との関係は明治維新後も続き、2人の間に作った子供はなんと24人!
(内2人夭折)
3人はたいそう仲が良く、3人で仲良く子育てもしたそうです。
さて、慶喜の側室は新村と中村の美人側室以外も美しい人でにぎわっていました。
それもそのはず。
慶喜が側室選びに、大好きな写真を用いたそうです。女性の写真を見て、自分好みの側室だけを選んで、手元に置いていたのです。
慶喜の側室の写真は、今現在も残っているので、気になる方はこちらでっ写真をご覧になてみてくださいね。
新村信さん
まとめ
いかがでしたでしょうか?
徳川慶喜の写真好きというのは、よく分かっていただけたかと思います。
側室の写真はもちろん、女中の写真まで撮る慶喜は、きっと毎日写真機を手に、被写体探しをしていたのでしょう。
将軍様が、今で言うところのカメラにご執心な姿は想像しただけでも可愛らしいですね。
慶喜が撮った写真は、インターネット上でも見ることが出来るので、気になる方は是非検索してみて下さい。
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