戦国時代~江戸時代の歴史を調べていると、必ず遭遇するのが「竹千代」という名前です。
竹千代は、徳川将軍家に関係が深い人物の、幼少期の名前です。ところが、日本史では、「松平竹千代」「徳川竹千代」という2つの名前が出てきます。
では、この松平竹千代・徳川竹千代は、同一人物なのでしょうか。ここでは、松平・徳川両方の「竹千代」という人物についてお話していきます。
目次
松平竹千代と徳川竹千代の正体を教えます!
結論から言ってしまうと、松平竹千代と徳川竹千代は、別の人物です。
松平竹千代は、江戸幕府の祖である、徳川家康の幼少期の名前です。
実は、徳川家康は、最初から「徳川」という姓を名乗っていたわけではありません。元々は、「松平家」と呼ばれる家の、松平広忠という人物の息子として生まれました。
そのため、幼少期は、実家の姓である「松平」を名乗っていたわけですね。この松平竹千代は、元服(成人)後もしばらくは松平姓を名乗っていました。
元服後は、竹千代から「元康」という名前に改めましたが、この時のフルネームは「松平元康」です。
彼が徳川姓を名乗るようになったのは、織田信長と同盟を結んだ頃からです。具体的に言うと、桶狭間の戦いで、織田信長が今川義元を滅ぼした後になります。
では、「徳川竹千代」という人物は、一体誰なのでしょうか。
実は、「徳川竹千代」という人物は、複数存在しているのです!
先ほどもお話したように、「竹千代」という名前は、徳川家康の幼名です。江戸幕府が開かれた後は、徳川将軍家でこの幼名を引き継ぐという風習が作られ始めました。
そのため、2代目の徳川秀忠から4代目の徳川家綱が、幼少期に「竹千代」を名乗っています。更に、10代目の徳川家治から12代目の徳川家慶も、竹千代の幼名で知られています。
江戸幕府の将軍全員が、竹千代を名乗っていたわけでは決してありません。でも、江戸幕府の祖である徳川家康の幼名は、将軍家にとって特別なものだったのでしょう。
今では考えられない松平竹千代の過酷な幼少時代とは?
さて、後の徳川家康となる松平竹千代は、幼少期は過酷な人生を歩んでいます。その苦難の人生は、今では考えられないほど茨の道でした。
松平竹千代は、先ほどもお話したように、三河の国の武将・松平広忠の嫡男として誕生しました。
ところが、母親の実家が、織田氏と同盟を結んでしまいました。当時、織田氏は、今川氏と激しく対立していた勢力です。
実は、松平広忠は今川氏に世話になっていたため、妻の実家が織田氏側についてしまうなど、あってはならないことでした。そのため、竹千代が物心つかないうちに、両親が離縁してしまうのです。
言ってみれば、父親と母親の家同士が、敵と味方に分かれてしまったのですね。
更に、元妻の実家が、敵対する織田氏についてしまったことで、松平広忠は今川氏に目を付けられてしまいます。
そのため、今川氏より「嫡男の竹千代を人質に出すように」という命令を受けてしまいます。これをきっかけに、色々な武将の家の人質として、あちこちを転々とする人生が始まります。
その間に、祖父・父を相次いで亡くし、悲しみの幼少期をおくったのです。
松平竹千代は、人質として入った先の、今川義元の元で元服し、「元康」と改名します。
今川氏の元で初陣を果たし、功績も上げましたが、急展開が起こります。主である今川義元が、織田信長に討ち取られてしまうのです。
これをチャンスと思った松平元康は、今川氏の元を去り、織田信長と同盟を結ぶことにします。この後、徳川姓を名乗るようになったということは、先ほどお話した通りです。
まとめ
松平竹千代と徳川竹千代は、同一人物だと思われがちですが、全く別の人物です。
松平竹千代は、後の徳川家康ですが、徳川竹千代は、徳川秀忠・家光・家綱・家治・家斉・家慶の幼名です。
江戸幕府の祖である徳川家康の幼名を、将軍家で受け継いだのですね。
徳川家康は、松平竹千代時代、不遇な幼少期を送った苦労人です。
そんな人物だからこそ、戦国の世を終わらせ、江戸幕府まで築くことができたのでしょうね。
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