斎藤道三の娘であり、織田信長の正室でもある濃姫。
誰もが一度は聞いたことのある名前ですが、その生涯は謎に満ちており、わからないことが多い。
そもそも濃姫について書かれた史料は少なく、生没年さえ推測の域を出ないといいます。今回は稀代の英雄を支えた一人の女性について紹介したいと思います!
目次
濃姫と帰蝶は同一人物?胡蝶という説も?!呼び名に違いがある理由は?
戦国武将としては有名な部類に入る斎藤道三。
戦国どころか日本史のなかでもトップクラスの偉人である織田信長。濃姫はこの二人の縁者でありながら、ほとんど情報が残されていません。
「濃姫」という名前はよく知られていますが、「美濃の国出身のお姫様」という意味で、もともとあった固有の名前ではありません。
江戸時代に出された、「絵本太閤記」や「武将感伏記」の中で正室として紹介され、定着した名前なのです。
彼女は、実際には何と呼ばれていたのでしょう?そして呼び名の違いは何なのでしょうか?
濃姫の本当の呼び名は?
濃姫は、1535年、まむしと称された戦国武将・斎藤道三の正室、小見の方の娘として生まれました。史料は少ないですが、現在まで二つの名が伝わっています。
濃姫と帰蝶の違いはなんなのでしょうか?
一つめの名は「帰蝶」
「美濃国諸旧記」に記述のある名前です。美しいですが、よく考えると少し違和感の残る名前でもあります。
政略結婚が当たり前の時代、武将の娘は大事な持ち駒の一つでした。
その持ち駒に、あえて「帰る」という字を使用したのはなぜか?
嫁いでも生家のために尽くすという意味ならあるかもしれません。しかし、もらう方の気持ちを考えると、差支えがあるような…
まあ、道三ほどの大物なら、あえてこの名をつけた可能性も否定はできませんけどね。
二つめの名は「胡蝶」
こちらは「武功夜話」に記述がありました。字に違いはありますが、微妙に帰蝶と似た名前なのは、もともと書き文字を読み違えたせい…なんて説もあります。
どちらにせよ、この当時の女性は驚くほど史料が残っていません。武将の記録は残されても、その妻はほとんど注目されませんでした
一字の違いがある二つの名前が残る理由は謎ですが、もっと多くの史料が残っていれば、本当の名も割り出せたのでしょう。現状では、どちらが濃姫の本名か確定することは難しいようです。
濃姫と信長の夫婦仲は?
では、信長と濃姫の夫婦仲はどうだったのでしょうか?こちらも残された資料は少なく、推測するしか手はありません。
事実としては、
「二人の間に子供はいなかった。」
「信長には嫡男・信忠の母を含む8人の側室が存在した。」
これだけ見れば、冷え切った夫婦仲が想像されます。現に不仲だったと考える人も存在しています。
しかし、たくさんの側室を抱えた信長も、その家族の間では驚くほど争いの形跡が残されていません。側室が正室をないがしろにしたなどというスキャンダルは、どこを探しても出てこないとのこと。
このことは、家の中で正室の力が強かったことを示しています。側室をまとめ、上に立つことで家庭を丸く収める。
それは、正室として欠かせない仕事です。子のない濃姫も必要不可欠な存在だったことがうかがえますね。
濃姫と明智光秀は従兄妹だった?濃姫の母小見の方は明智氏の出身?
信長と濃姫には、歴史的に見てもう一つ、不思議な縁があります。その縁は、濃姫の母、小見の方に関するものです。
小見の方と明智光秀の関係
濃姫の母である小見の方は、美濃国明智長山城主・明智光継の娘です。明智という名前を聞いて頭に浮かぶのは…
そう、明智光秀ですよね。
明智光秀と言えば、織田信長を本能寺で討ち取った張本人です。理由はいろいろ取りざたされていますが、織田家にとっては最大の仇で憎むべき相手であることに間違いはありません。
その光秀が、一説によると、小見の方の甥であると言われています。推定ですが、小見の方の兄・明智光綱は光秀の父との説があり、ということは、濃姫と明智光秀は従兄妹同士ということに…
なんという皮肉な関係でしょう。
自分の奥さんの従兄妹である明智光秀に殺された信長。いつ死んだかわからない濃姫ですが、もしその瞬間を生きていたら、どんな気持ちで悲報を受け取ったのでしょうか。
政略結婚の多い戦国という時代が生んだ悲劇の一つと言えるでしょう。
濃姫のその後はどうなったのか
本能寺の変で信長と共に戦い、討ち死にする濃姫。史実の可能性は低いようですが、ドラマなどにはよく採用されるシーンです。
明智光秀が従兄妹もろとも信長を滅ぼした。確かにドラマとしては面白い筋書きですね。情報の少ない濃姫だけに、作者はついこの話を選んでしまうのかも。
濃姫は、いつ、どんなふうに死んだかどこにも記されていません。
のちの文献で、本能寺の変の後の出来事の中に、
「安土殿」
という人物が登場します。
「安土殿」とは、安土という土地を治める人の正室を指します。信長の妻・濃姫が、本能寺の変後まで生きた証拠なのですが、もし濃姫が若くしてなくなっていたら、信長が新たに妻をめとる可能性は高い。
ならば、その新たな妻が「安土殿」でも支障はありません。
信長より先に死んだのか?
本能寺で信長と共に死んだのか?
信長なき後も「安土殿」として天寿を全うしたのか?
文献をひもといても、その答えを知る鍵は見つかっていません。生涯を謎に包まれたミステリアスな女性。想像力を駆使して描くには、最高の素材であると言えるでしょう。
斎藤道三の娘濃姫は、信長の正室帰蝶のまとめ
呼び名の違いを中心に、簡単に濃姫について御紹介しました。
「帰蝶」と「胡蝶」のどちらが本当の名前なのか?
いつ、どこでなくなったのか?
明智光秀の従兄妹だったのか?
情報の少なさが、さまざまな謎を提供してくれます。
荒れる戦国の世で、不世出の天才を支えた正室・濃姫。
情報は少なくとも、その存在感は大きく、のちの世に名が残りました。
軸足を実家において、スパイとして信長の情報を流したという説もあり、
その気の強さを記すエピソードも数多く存在します。
帰蝶(胡蝶)と呼ばれた勝気な娘。嫁いだ先では日本史最大の偉人につかえ、覇業への道をともに歩んだ。
その生涯の謎について考えることは、私たちの想像力を鍛える絶好の機会になると思われます。
あなたも濃姫のミステリーに挑戦してはいかがでしょうか?
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