四候会議は隠居の集まり!?現役藩主でなかった理由とは?

四候会議は隠居の集まり!?現役藩主でなかった理由とは? 偉人・歴史
四候会議は隠居の集まり!?
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江戸幕府から明治へと移行する時代。

坂本竜馬や西郷隆盛、徳川慶喜らが倒幕を画策したり、対外政策の裏で駆け回ったりと多くのことがありました。

表だって活躍した人は、歴史の教科書にもちゃんと記されていますね。

しかし、歴史の教科書にそんなに記述がない人の中にも日本の将来のために働いていた人たちがいました。

例えば、四候会議メンバーなんかもそうですね。

権力を幕府から天皇へと移行させるために行動していたのが四候会議メンバーです。

ところで、この四候会議のメンバーを挙げることは出来ますか?

すぐに四人、パパッと思い付く人は相当な歴史マニアですね!

反対に、「そもそも四候会議ってなんだっけ?」という方も多いでしょう。

そこで今回は、四候会議についてまとめてみました!

目次

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四候会議のメンバーは幕末四賢候ではなかった!その理由とは?

 

四候会議とは、1867年に設立されたもので、四人の元藩主や大名で構成されました。

 

その四人のメンバーに選ばれたのが、

 

土佐藩の山内容堂(別称 山内豊信)

伊予宇和島藩の伊達宗城

福井藩の松平春嶽

薩摩藩の島津久光

 

幕末歴史に詳しい方なら、このメンバーのほとんどが幕末四賢候だということにお気付きでしょう。

 

幕末四賢候メンバーというのは、

土佐藩の山内容堂

伊予宇和島藩の伊達宗城

福井藩の松平春嶽

薩摩藩の島津斉彬

 

です。

 

つまり、薩摩藩の人だけ異なるというわけです。

 

これにはわけがありまして、四候会議のメンバーも元々はこの幕末四賢候から派生したものだったのです。

 

幕末四賢候の一人、島津斉彬は1858年に急死してしまいます。

 

これを受けて、残りの幕末四賢候らは薩摩藩メンバーを欠く三人で話し合いやら会合さらを定期的に行い意見交換していました。

 

しかし、時の有力藩である薩摩藩メンバーが居ないというのは何かと不便だったこともあり、薩摩藩の島津久光を迎え、四人で話し合いをするようになりました。

 

これが、四候会議の始まりです。

 

因みに、島津久光は島津斉彬の異母弟に当たります。

 

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結局、四候会議で得をしたのは誰か?

四候会議は隠居の集まり!?現役藩主でなかった理由とは?

四候会議は隠居の集まり!?

「四候会議」と銘打って、

幕府の政治に直接関与するようになった背景には、薩摩藩の動きがありました。

 

島津斉彬亡き後、幕末四賢候メンバーにもなかなか加えてもらえなかった薩摩藩は、

なんとか幕府の権力を弱め、藩の力を増そうと考えていました。

 

そのためには、幕府の信頼が高い幕末四賢候を巧みに利用して、四候会議を作り出す必要があったのです。

 

そして、この薩摩藩の先導によって、四候会議が設立され、幕府と藩主による連合政治、雄藩連合を目指したわけです。

 

しかし、あまりにも利益を追求し過ぎた薩摩藩のやり方に納得できない土佐藩の山内容堂は四候会議をすっぽかしてばかりいました。

 

幕末四賢候と称せられた山内、伊達、松平を差し置いて島津は薩摩藩に良いように口出ししてくるわけですから、そりゃ腹も立ちますよね。

 

まして、後から入ってきたメンバーなのにも関わらず出しゃばるわけですから、山内にとっても恐らく他のメンバーにとっても薩摩藩の態度は面白くなかったわけです。

 

その薩摩藩の態度は、時の征夷大将軍であった徳川慶喜の目にも余るものだったため、政治力で薩摩藩の動きは封じ込められてしまいます。

 

これで権力を我が物にしようとしていた薩摩の野望は敗れ去ります。

 

そして、根回しがダメなら力づくで幕府を倒してやるという方向に転じていきます。

 

薩摩藩による倒幕運動が激しくなったのはちょうどこの頃からでした。

 

薩摩藩の態度にご立腹だった土佐藩の山内は、自身を藩主にまで格上げしてくれた幕府への忠義心から、幕府支援に熱を入れていました。

 

 

しかし、時の土佐藩藩主と薩摩藩が同盟を結んでしまったのでさあ大変!

 

武力で倒幕を目指す薩摩の勢いに呑まれ、土佐藩自体が倒幕運動へと傾倒していきます。

 

山内にとっては、皮肉な展開になってしまったというわけです。

 

しかし、結果として薩摩藩による武力行使の倒幕は行われませんでした。

 

 

これは、幕末四賢候メンバーの機転による大政奉還の案が持ち上がったこと、

慶喜自身も薩摩藩の危険な動きを察知していたことが関係しています。

 

幕府と深い関係を持つ大名上がりの山内、松平、伊達は、幕府が倒れることを

望むことはありませんでした。

 

むしろ、永続を願っていたのです。

 

薩摩なんかに倒されるぐらいなら、自ら退き大政奉還という形を取る方が

確実だということで、四賢候メンバーと慶喜の間で利害が一致します。

 

そして、慶喜は権力を天皇へと返上することに成功したのでした。

 

 

その後にクーデターは起きていますが、ロシアのロマノフ家の最期のような

血みどろの展開にならずに済んだことを考えると

一番得をしたのは徳川慶喜かもしれませんね。

 

権力を天皇に返上する前に倒幕派が武力行使をしていたならば慶喜はギロチン台行が濃厚だったことでしょう。

 

 

 

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四候会議まとめ

いかがでしたでしょうか?

 

四候会議のメンバーは賢い藩主たちの代表格、幕末四賢候ではありませんでした。

薩摩藩だけ違いましたね。

 

幕末四賢候メンバーだった薩摩藩の島津斉彬の器を持つ人物がいなかったのでしょう。

 

皆、安政の大獄で謹慎処分となった元藩主という隠居メンバーで構成されていましたが、

その当時の陰の最高権力者たちだったと言われています。

 

こういった歴史の裏事情って好奇心を刺激されますよね!

 

更に詳しい情報が知りたいという方は、是非四候会議メンバー個々人の経歴をチェックしてみて下さい。

 

それにしても徳川慶喜よりだった島津斉彬が生存したままだったら、どういう展開になったのか、とても興味深いです。

 

まあ、歴史でたらればをいったらきりがないでですね。

 

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