江戸城無血開城の立役者、勝海舟!エピソードから分かる性格とは?

明治維新と聞いて誰を思い浮かべますか?

坂本龍馬や西郷隆盛、新選組に徳川慶喜。10本の指では数えきれないビッグネームがこの時代に集中して生きていました。

その中でも、異彩を放つ俊才が今回のテーマ。幕臣でありながら、維新の英雄たちを育てた一面も合わせもつ男・勝海舟です。

彼はどんな性格で、どんな人物だったのか?

数々のエピソードとともに、その人となりを紹介したいと思います。

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勝海舟の性格が分かるエピソードを集めてみた!

勝海舟の性格をひもといていくためにエピソードを集めてみました。

1823年、旗本・勝小吉の息子として生まれた勝海舟。

少年時代から剣術を学び、蘭学にも通じたその才能は、やがて幕府の目にとまり、頭角をあらわすことに。

黒船来航に際し結ばれた「日米修好通商条約」その批准書交換のために、勝は咸臨丸に乗り込み、米国へ向かいます。

米国の文化レベルの高さに圧倒された勝は、軍艦奉行並となり、神戸に海軍操練所を創設。

やがて来る戊辰戦争の際には、西郷隆盛を相手に江戸無血開城という離れ業をやってのけます。

才能を開花させる根気強さ

才能を開花させる根気強さ

才能を開花させる根気強さ

若くして剣術の免許皆伝を成し遂げたことからもわかるとおり、生まれながらの才能に恵まれた勝。

しかし、それだけで出世できるほど、この時代は甘くありません。

彼には才能に加え、根気強さという武器がありました。

25歳のころのお話。これからは外国語が必要不可欠と感じた勝は、3000ページもある「ドゥーフ・ハルマ」という蘭和対訳辞書を筆写しようと思い立ちます。

しかし、その辞書は当時出版を禁じられており、手に入れようとすると莫大な費用がかかります。

一計を案じた勝は、赤城という医者に頼み込み、辞書を10両という値段で筆記させてもらうことに。これは現代の価値で100万円以上の大金です。

赤城は到底無理だと笑っていましたが、勝は一年の歳月をかけて、筆写本を2部も作成しました。1つを自分用に、1つを売って出費を補填したのです。

このエピソードが示す通り、勝にはこれと決めたらとことんやり通す根気がありました。

幕臣でありながら、あらゆる手段と人脈を用いて江戸の町を戦争から救い出した。

その力の源は、彼の「あきらめない」気持ちの強さにあったのではないでしょうか

面倒見のいい兄貴という一面

次は、勝が海軍伝習所の教官だったころのエピソードです。

ある時、伝習所の練習生がこっそり宿舎を抜け出し、遊郭で遊んでいたことが発覚しました。多くの教官たちが激怒し、その練習生たちを処分しようとします。

しかし、勝は処分に反対しました。

「練習生は勉強の出来で責めるべき。素行で責めるべきではない」

勝の一言で難を逃れた練習生には、のちの榎本武揚もいたと言われています。

精神論ではなく、実力で人をはかる勝の合理性があらわれたよいエピソードと言えますね。

後年、明治政府にこわれて政治に復帰した勝海舟。

その地位と人脈を最大限に生かして行ったのは、かつての主君・徳川慶喜や、ライバル西郷隆盛の名誉回復運動でした。

元幕臣たちの貧しい生活を捨てておけず、就職活動や生活保護にも力を入れています。

合理性を発揮しながら、昔の義理も忘れない。

面倒見の良さを発揮し、元部下たちの将来も心配する。そんな矛盾した性格も彼の魅力の一つだと思います。

「殺生をしない」を貫いた人生

勝海舟は直心影流という剣術の免許皆伝を受けていました。

剣の達人で、人を斬ることも簡単に出来たでしょう。しかし、殺生を嫌い、刀のつばをこよりで縛って使えなくしていたと言います。

付き合いで狩りに行っても、鉄砲を外してしまい、獲物を撃つことはありませんでした。自身の庭園も雑草が生えるにまかせ、虫が飛び回るのを喜んでいたとか。

激動の時代、周囲は血なまぐさい空気に包まれ、勝自身も命を狙われる局面が何度もあったと思われます。

そんな中、刀を使わず、素手だけで相手を取り押さえた勝。

その姿は従来の線の細いイメージでなく、力強さに満ち溢れています。

ただそんな彼にも一つだけ苦手な生き物がありました。意外なことに、「犬」を見ると震えたと言います。

少年時代、野良犬に出くわした勝は、睾丸を噛まれ、死ぬほどの重傷を負います。

父の献身的な看護がなければ本当に死んでいたかもしれません。

幸い命は助かったものの、以来犬が大の苦手になりました。

完璧な彼にも勝てないものがあったことに、少しほっとしているのは私だけでしょうか。

勝海舟の死因は何だったのか?

性格的に多面性があり、単純には評価できない勝海舟。非常な癇癪もちで、家族は大変だったともいいます。

そんな彼の最後も、やはり一風変わったものでした。

勝海舟の最後とラストメッセージ

1899年1月のある日、入浴を済ませた勝は、座り込んでしまい、

「胸が苦しい。ブランデーをくれ」

と周囲に命じました。

ブランデーをグラスに注いだ勝は、その後、

「こんどはどうもいけないかもしれんぞ」

といいつつ、ブランデーを口に含みます。

彼が意識を失ったのは、その直後でした。

今でいうなら彼の死因は脳溢血でしょう。

76歳という年齢は、当時なら天寿を全うしたと言えるもの。

死に至る直前、彼はそばについていた妹にこんなセリフを吐いたと言います。

「これでおしまい」

ある意味では人生に満足し、悔いのないことを示す言葉と言えます。

複雑でとらえどころのない男の生涯は、この一言で幕を閉じたのです。

勝海舟の性格やエピソードのまとめ

勝 海舟の性格やエピソードのまとめ

勝 海舟の性格やエピソードのまとめ

ここで紹介したエピソードは、勝の複雑な性格を示すごく一部です。

他にも、坂本龍馬とのやり取りや、咸臨丸での船酔いなど、数々の人間的かつ超人的なエピソードを持つ勝海舟。

まさに明治維新の時代にふさわしい傑物と言えるでしょう。

知略の人というイメージが強いですが、剣術でも達人のレベルで、反面命を大事に考える優しい性格も持ち合わせていました。

やがて脳溢血という病に襲われた勝。

その死因はあまりにも突然ですが、激動の時を生きた怪物には案外ふさわしいものだったのかもしれません。

「これでおしまい」

そんなふうにさらりと言える人生に、人は憧れるのではないでしょうか。

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